
ある小説家のことば「書く訓練が足りない!」
ある小説家のブログ(注1)を読んで、そうだなと思った。何でもいいからテキストを毎日書く訓練をしないと、小説などというものは書けるようにはならないらしい。なんでも良いから言葉を書く。なんでもいいから頭に浮かんだことを書き留める。なんでも良いから文字にする。いきなり小説を完成することなどできないと。小説が書けないのは、圧倒的に「書く」訓練が足りないからだと。全くその通りだと思った。
毎日のふとした出来事でもいい、外の景色でも天気でもいい、何でもいいから心に触れたことを書けばいいという。「嫌だな」「嬉しいな」「こうしたないな」「もしこうだったら」とか、何でもいいから書く。あるいは脳みそで考えたことでもいい。感覚的なことでなくて理屈っぽいことでもいい。とにかく何でもいいから書きつづけ、文章を書くという訓練を積み重ねろと。
雑多なメモの中から物語の芽が
長い文章でなくていい。メモでもいいから書けという。ほとんどのメモは埋もれて何の役にも立たないかもしれない。しかし、そういう段階を経なければ物語を完成させられる能力など身に付かないという。そんな地道な訓練を積み重ねた先に、何でもいいから書きつづけた先に、物語になる場面がふと現れるかもしれない。地道な書く訓練の先に、いつしか物語を書ける能力が身についているかも知れない。小説を書くというのは、そういう段階を経ることが前提なのだという。
確かに、何でもいいから書くことの延長が物語のワンシーンを書く訓練になるだろう。思い浮かんだことが物語のプロローグでも、クライマックスでも、エピローグでも、あるいはバックストーリーでもいいから、思い付いたシーンを描くだけでいい。そして、そのシーンとはつながらない別のシーンを書く、そういう関連のないシーンを思い浮かんだまま書き続ける。そんなシーンがどんどん溜まっていくにしたがって物語の構成(プロット)が見えてくる。
途中で止めていい
想像した物語がつまらなく感じたら、無理に続ける必要はないともいう。つまらなくなれば、まったく別の物語を想像すればいい。捨て置いた物語はまたいつか興味を覚えて戻ってくるかも知れない。そのまま捨て置かれたまま陽の目を見ないかも知れない。そのぐらい軽い気持ちで書きつづける。肝心なのは書きつづけ、物語の断片やメモを蓄積させていく訓練なのだ。
物語は粘土細工
私は思った。物語を作るのは粘土で造形物を作っていく工程に似ているかも知れない。あっちこっち粘土を積み重ねていくに従って、少しずつ全体像が見えてくる。余計な部分を削たったり、足りない所は粘土を重ねたり、方々から眺めながら完成を目指していく。あっちこっち粘土を貼り付けたり削ったりしながら全体を仕上げていく。物語も、最初からきっちり構成を決めてからじゃなくて、あっちに粘土を貼り付け、こっちに粘土を貼り付けていくような書き方でいいのだろう。
泳ぎたいなら先ずバタ足の練習から
小説、物語を作るというのは、私が思いこんでいた方法より柔軟に考えた方が良いと思った。私は最初に物語の設計図を用意しなければ小説は完成できないと考えていた。その考えが間違っているかも知れないのは、そもそも設計図を作る能力がないのに気がついていないことだ。設計図だけでなく文章を書く能力だってないのに立派な物語を作ろうとしていた。まるで泳ぎ方を知らないのに、いきなり水の中へ飛び込むようなものだ。まずバタ足の練習から始める必要があったのだ。
前途は果てしなく思える。でも、何だか肩の力が抜けて、軽い気持ちにもなれた。ぽてちん。
(注1)参考文献:『小説の書き方ープロ作家が答えます』晶山嵐(しょうやまらん)
