主人公を最初に想像することから物語が作れるでしょうか?
小説のテーマ、コンセプト、世界観など一切を考える前に、先ず主人公を想像してから物語を作れるのか、実践してみました。
旧約聖書の創世記で、神が土から作った人間が自分で活動を始めたように、小説でも主人公を作ったら自ら動き回るのではないかと考えるからです。
私の微々たる経験ですが、物語の一場面を想像している時に、登場人物が勝手に動き回る感覚がありました。
勿論、神とまではいきませんが、主人公を作るだけで物語が自然に動き出したら、こんな楽しいことはありません。
主人公から物語を作る方法の実践で、物語全体の構成を頭をひねって考えるのではなく、物語の目撃者のように小説を作る体験ができれば最高です。
主人公を最初に想像することから物語を作る方法を実践してみた
自分の好きな人物=主人公の原型
まだ頭の中に何もないところから、どうしたら主人公を想像することができるでしょうか?
私は、自分の過去の体験の中に、主人公になるような人物がいるはずだと考えました。
自分が今まで観たドラマや映画、読んだ童話や小説の登場人物の中に、心の奥に刻まれた感動の記憶があるはずです。
物語でなくて、家庭や社会生活の中で出会った人物でも良いです。
特定の人物が、記憶の底に残っているとしたら、その人物が自分の心に響いた証拠です。
心に残る物語の登場人物は、これから作ろうとする物語の主人公の原型にできます。
作者の心情や熱い思いのこもった主人公を作るためには、作者自身に感動を与えた人物と似た型の主人公を考えるのが有効だと思います。
私の好きな人物
- 武者小路実篤『馬鹿一』の主人公下山一(しもやま はじむ)
- 韓国時代劇ドラマ『ホジュンー宮廷医官への道』の主人公ホ・ジュン
- 菊池寛『恩讐の彼方に』の主人公市九郎(得度して法名は了海)
私の好きな人物の共通点は、世間から蔑まれていたり、地位が低かったり、罪を犯していたりしていても、強い信念、尊敬する師との出会い、懺悔の芽生えによって、自分の運命と戦って人生を切り開いていくような人物です。
最初から強いヒーローや、陰のない主人公に、私は惹かれません。
私の嫌いな人物
主人公だけでなく、主人公に敵対する人物も、作者自身が嫌いと感じる人物であってこそ作者の怒りを読者に伝えられます。
主人公の原型を考えるついでに、敵対する人物の原型も考えておきます。
- 権威を笠に着て威張り散らす人。
- 悪知恵に長けて卑怯な策を練る人。
- 楽な道ばかり探して努力しない人。
- 理屈や空論ばかりで行動しない人。
- 欲しがるばかりで奉仕しない人。
- 損得だけ考えて義理人情の薄い人。
- 権威に盲従で下位の者に居丈高な人。
- 責任を取らずに誤魔化そうとする人。
具体的な作品や登場人物は思い浮かびませんでしたが、こういう性質の敵役はドラマや映画には必ず出てきますよね。
私はこういう登場人物には反感を覚えます。
私が小説を書こうとした時には、敵の人物も同じような性質の登場人物になるでしょう。
好きな人物の型の主人公を想像する
私のような初心者は、まっさらな状態からいきなり主人公を想像するのは難しいです。
私の好きな人物と似た型の主人公なら想像しやすくなります。
私の好きな人物の特徴を踏まえて、新しい主人公を考えてみたいと思います。
型の比較をしやすいように、今回作る主人公は「少年」に設定したいと思います。
世間とは全く違う価値観を持った主人公
『馬鹿一』の主人公は、世間から知恵遅れのように馬鹿にされています。
毎日、道端の草や石ころを描いたり詩を書いたりして暮らしています。
世間から見れば、無駄なことをしているだけにしか見えませんが、主人公にとっては、美しいものを追い求める純粋に芸術的な行為なのです。
最初は下手だった主人公の作品は、周囲も認めざるを得ない程の進歩を見せるのでした。
学校へ行かずに、毎日朝から晩まで街のゴミを拾い続ける少年:
「僕には何の取り柄もないけれど、ゴミを拾うことで人の役に立って、生きてていいと言われているような気持ちになれるんだ。ゴミを拾う瞬間だけ、僕は生きている実感があるんだよ」
教育評論家の父親と高校教師の母親から生まれた少年は、小学校の入学式でいじめに遭ってから学校へ行かなくなった。
世間体を気にして学校へ通わそうとする母親と、無理をさせずに子供の自主性に任せようとする父親。
毎日自分の部屋に引きこもる少年は、「僕は何のために生まれて来たのだろう?」と思い続ける。
「悪い友達ばかりじゃないわよ。学校へ行けばいい友達や楽しいことも待ってるのよ」と、言い聞かそうとする母親。
「勉強なんかどこでもできるから、行きたくなったら行きなさい」と慰める父親。
少年には両親の言うことは良くわかっていた。
「お父さん、お母さん、僕はそんなことで悩んでいるんじゃないんだ。僕が耐えられないのは。僕が何のために生きているのかということなんだ。僕は生きている意味がわからなくて毎日が苦しいんだ」
ある日、このままではいけないと街に出てみた少年は、夕暮れの街角の吹き溜まりに転がっているキャラメルの箱に目が止まった。
「なんだか僕みたいだ」
少年はキャラメルの箱を拾い上げた。
その日から、少年は落ちているゴミを拾い始めるようになった。
やがて、学校に行かずにゴミ拾いをする少年のことが、美談のようにマスコミに取り上げられる。
教育委員会も看過できなくなり、少年の両親に学校に戻るように無言の圧力をかけてくる。
世間から注目されるようになってしまった少年は、それまでのような「生きている充実感」が失われ、何かに役目を与えられて踊らされているように感じてしまう。
「僕の中にも、誰かに認めてもらいたい、褒めてもらいたい欲があったんだ。僕は純粋に人の役に立ちたいのではなくて、役に立っている自分を人に見せたかっただけなんだ」
街からゴミを拾う少年の姿は消え、少年は学校に戻った。
今日も少年は、学校の誰も見ていない所で、独りで掃除をし、ゴミを拾っている。
心から尊敬できる師との出会いで生まれ変わる主人公
『ホジュンー宮廷医官への道』の主人公は、低い身分の生まれのために、科挙(官吏登用試験)を受けることもできずに悲観に暮れていました。
患者の傷の膿(うみ)を口で吸い取るような心医(患者に心から寄り添う医者)であろうとする師に出会い、主人公は生涯をかけて医の道を目指します。
ホームレスの女から生まれた少年:
ホームレスの女は、男の子を生むと直ぐに死んでしまった。主人公はホームレスの仲間に育てられる。ある日主人公は「教授」と呼ばれている変わり者のホームレスに出会う。好奇心旺盛で知識欲の強かった主人公は、社会の偏見と戦いながら、一度も学校へ行くこともなく東大に合格してしまう。
「俺なんかを生みやがって!」主人公は母親を恨みながら育った。他のホームレス仲間が残飯をもらったり、ダンボールを集めたりしてつつましく生活いるのに、主人公は万引きや置き引きを繰り返していた。
「乞食みたいなことができるか!」
目立たぬように暮らしたいガード下のホームレス仲間から飛び出した主人公だったが、落ち着いたところは別のホームレスが集まる河川敷だった。
そこには、周りから変人扱いされていた「教授」と呼ばれている老人がいた。
破れた青いシートのテントの中で、毎日難しい数学の難問の解明に没頭している教授に主人公は惹かれていく。
「そんなに勉強して、何が面白いの?」
主人公の質問に教授は答える。
「美しいからだよ」
教授の薄汚れた大学ノートには、意味不明の数字や記号がページからはみ出すように並んでいた。
教授のノートは、主人公にも美しいものに見えた。
主人公は未知のことを知ろうとする喜びを教授から学んでいく。
しかし、勉強に喜びを見出した主人公に嫉妬する少年がいた。教授の息子だった。
閉鎖的な大学からも、子供の受験に没頭して夫を顧みない妻からも逃げ出した教授を探しあてた息子は、親子のように接する主人公に敵意を抱く。
父親から引き離すことをたくらんだ少年は、ホームレスの中に学校へ行かない子供がいることを役所に連絡する。
役所の職員が河川敷のテントを訪れて、主人公を施設に預けるように教授に説得する。
しかし次の日、河川敷から教授と主人公の姿は消えていた。
月日は経って、教授の息子は東大の入学試験に臨んでいた。同じ会場の席には、真新しい服を着た主人公の姿があった。
重い罪の後悔から改心する主人公
『恩讐の彼方に』の主人公は、主(あるじ)を殺して逃走しながらも更に罪を重ねます。
やがて改心して出家した主人公は罪の償いに、死者が出るほどの断崖の道に難儀していた人々のため、岩を砕いて隧道(トンネル)を掘ることに一生を捧げます。
敵討ちに現われた主の息子に討たれようと身を任しますが、改心した主人公の滅私の信念の前に、息子は刀を振り下ろすことができず、主人公と並んで岩を砕き始めるのです。
いじめ加害者の自己嫌悪で世捨て人になるが、老いの最後に自らの命を捧げる主人公:
たとえ悪意はなくても、いじめを加えた側にも深い傷を残す場合がある。主人公もその一人だった。
主人公は小学生の時に、ふざけたつもりで同級生をからかった。
主人公は親しみの延長ぐらいの軽い気持ちだったのに反して、からかわれた方は裏切られた失望のあまり不登校になってしまう。
「僕は知らずの内に人を傷つけてしまう」
自分の思い上がった未熟さに自己嫌悪におち入った主人公は、心に壁を作って誰とも関わろうとしなくなる。
進学や就職など、主人公の人生の節目になると、「僕には幸せになる資格がない」という声が心に中に浮かんでくる。
全てにおいて消極的な生き方しかできなくなった主人公は、学業でも仕事でも上手くいくはずがなかった。
主人公が頑張って何かを成し遂げようとする度に、いじめた同級生の姿が思い出されてしまうのだ。
社会との関わりを捨てて生きることが、せめてもの罪滅ぼしと思った主人公は、独り山奥に移り、世間から隠れるように暮らす。
やがて年老いた主人公はある朝、庭の熟した柿の実が小鳥についばまれて落ちるのを見る。
「柿の実でさえ、黙って最後は小鳥の餌になり、落ちては土に帰っていく」
このままでは死ねないと悟った主人公は、誰かの役に立つことをしなければと山を離れる。
しかし、足腰の衰えた老人を迎え入れるところはなかった。
仕方なく街をさまよった老人は「そうだ、途方もなく遅くなってしまったが、勇気を出してXX君に会って謝ろう」と、遠い記憶を頼りに、いじめてしまった同級生のXX君の家に向かう。
なんとかXX君の家を探し当てた老人は、応対に出てきたXX君の妹から、「兄は3年前に他界しました」と告げられる。
「XX君のお墓はどちらに?」
それから半年して、彼岸の墓参りに訪れたXX君の妹は、見知らぬ老人が兄のお墓を水拭きしているのを見かける。
「あの、どちら様でしょうか?」
老人の背中越しに尋ねる妹に、
「あ、いえ、昔お世話になった者で」と、老人は振り向くこともなく立ち去ってしまう。
帰りがけに妹は霊園の事務所の職員に尋ねると、毎日兄の墓を掃除していく老人がいることを知らされる。
最初に主人公を想像することから物語を作る方法を実践してみた感想
- 作った主人公が「動き出す」のは、あらかじめ主人公の性質と、元になる物語の流れがあったからで、何らかの誘導が必要なのだと感じた。
- 過去に感動した物語の人物を土台にして主人公を作れる手応えはあったが、一種の制約にもなってしまって、もっと奇想天外な展開ができなくなっていた。
- 「自分が好きな人物」にこだわる必要がないのではないかと思い始めた。それよりも、主人公はなぜ変わるのか、どう変わるのかという変化、転換を作り出すことが、物語には最も重要なことだと思う。それなら、変化、転換のドラマチックな部分(場面)から物語を作り始める方法があるのかもしれない。