小説を書く基礎9「読書で作者の言葉と対峙して観察力を磨く方法」を実践してみた

私は読書をしても、時間が経つと内容のことを直ぐに忘れてしまいます。

その時は感動したはずなのに、何が良かったのか、いつまでも覚えていられないのです。

「何か面白いことでもないか」ぐらいの気持ちで読んでいたので、束の間の感動はあっても直ぐに記憶から消えて、具体的なイメージとして長く心に残りませんでした。

原因は私の読書の仕方が間違っていたのです。

gemini老師は言いました。「表現を見つけろ」と。つまり、作者の熱い思いのこもった言葉・メッセージを見つけろと。

私は今まで、作者の言葉・メッセージを傍観者のように聞き流していただけだったのです。傍観者だったから、記憶にも残らず、感動も直ぐに消え去っていたのです。

「表現を見つける読書」を実践してみて、読書というのは作者の魂から放たれた言葉・メッセージに、自分の心を対峙させる場だとわかりました。「表現を見つける」ことが、観察力を磨くことになるのだと気づきました。

読書で作者の言葉と対峙して観察力を磨く方法」を実践してみた

読書で作者の言葉と対峙して観察力を磨く方法」を実践してみた
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読書で「言葉」を見つけることは、その言葉を見つけた理由、その言葉がどうして心に響いたのかという理由を自分に問うことです。私は問うことをして来ませんでした。

私の好きな小説『馬鹿一』(武者小路実篤)をもう一度読み返し、作者の伝えたかったであろう言葉を見つけて、その言葉に自分の心を向き合わせたいと思います。

小説『馬鹿一』の概略

物語の中心となるのは、詩や絵を描くことが天命と思っている下山一(しもやま はじむ)、通称「馬鹿一」と呼ばれている男です。

彼は誰からも上手いとは思われない詩や絵を描きながら、草や石ころなどの自然を愛し、人の評価など気にせず、自分の心のままに生きています。

周囲の人たちは馬鹿一をからかって笑い者にしますが、馬鹿一から見ると、彼らの方が真理に気づかない無知な人間だと思われるのです。

馬鹿な変わり者と蔑まれていた馬鹿一が、次第に周りの芸術の大家たちの目を覚まさせていく痛快さが魅力です。

心に響いた言葉や表現

「生きている内に有名になるより、千年後に世界一の人間になる方を僕は望んでいる」

私もそうですが、「小説を書いてみたい」というように、何かを表現しようとするのは、背後にそれ以外の欲があると思います。

「お金が欲しい」「認められたい」というような欲です。

馬鹿一は、道端の草や石ころを詩によんだり、絵に描いたりすることが喜びで、世俗の欲など目もくれずに夢中になれます。

「千年後に……」とはそういう意味だと思います。

美しいものを求める馬鹿一の純粋さに惹かれます。心が純粋であること、真理は単純であること、本当に強いものとはそういうものだと思います。

心を純粋のまま守ること、真理は単純であると信じ続ける勇気を、私はいつからか捨ててしまっていました。

取り戻すことは無理だと思いますが、純粋で単純なものが強いということは忘れないようにしたいです。せめて。

「この世は美しいもので一ぱいなので、醜いものを見る閑はない」

美しいものだけでも追い求めることが難しいのに、醜いものに関わっているひまがない。

人を羨んだり、人を責めたり、人を軽んじたり。

私も醜いものに関わるひまのあることを反省します。美しいものだけを追い求めていない証拠です。

私は他人の成功に嫉妬します。他人の不幸で自分の幸福を噛み締めます。自分より弱い者への優越感があります。

美しいものだけを追い求めれば、私の醜さは消えるのでしょうか?

そんなふうに思うこと自体が甘えてる証拠なのでしょう。

私は夢中になりたいです。一つのことに馬鹿と思われる程、夢中になりたいです。

でも、欲を捨てきれないのです。楽な方へよそ見をしてしまうのです。

(「こんなもの許かりかいてよくあきないね」と言ったら、)「君はあきる程見たことがあるのか、見ない前にあきているのじゃないか」

「ものの本質を、自分の純粋な心だけで見ようとしているのか?」

大勢の意見の方に無批判に迎合してしまっていないか、改めて考えさせられます。

「それは自分の心と頭で考えたことなのか?」 「誰かの意見の受け売りじゃないのか?」

「私の頭から出したはずの考え、心から吐き出したつもりの思いは、本当に私の本心なのか?」

どこまで行っても、「嘘をつけ!」という言葉が追いかけてきます。

私の観察力はいい加減なところで折り合いをつけています。簡単にものの本質など見抜けません。

「僕は自分に不適当な仕事であくせくしようとは思わない。自分が之より他仕方がないと思う方に全力を出せばいいと思っている」

作者の武者小路実篤の残した言葉「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」の思いを、馬鹿一に託しています。

ただ好きなことをする程度の意識ではなくて、「他のことは何もできない、この道でしか生きていけない」というギリギリの言葉です。

私にその覚悟があるのか、自分を追い詰めているのかと問われると、恥ずかしく思う限りです。

私にはこれしかない、これしかできないというものはありません。

あれもだめ、これもだめ、仕方なく今はそれをやっている、に過ぎません。

いい加減な生き方、中途半端な生き方をしているから、成功できなくて当然です。

「これで生きていくしか道がない」というのは、私には羨ましく映ります。そう感じるのは、甘えた幸福感なのでもあるのですが。

せめて、もっと一つのことに集中しなければと思うのが精一杯です。

「しかし、君が本当に賢いなら、花がなぜ美しい花を咲かせるかわかるわけだが、わからないだろう」

この言葉も「本当に真実を見ているのか?」という問いかけです。

人間は自分を賢そうに見せたいし、見てもらいたいと思っています。

いつの間にか、自分は賢いと思い込んでいることに気が付きません。

「何をやっても上手くいかない」「自分は最低の人間だ」「生きている資格がない」とつぶやいている私でさえ、自分は賢いと内心思い上がっている愚かな人間です。

私は真実は何も見ていない、本質をすべて見逃している人間です。と開き直るずる賢さが、どこまでも消せない人間です。

読書で作者の言葉と対峙して観察力を磨く方法を実践してみた感想

  • 「心に響く言葉」を見つけることは、自分の自覚していない嘘を暴くことだとわかった。
  • 言葉というのは、やさしい表現でも魂の込め方次第で力を持つものだと感じた。
  • 読書をしたいのは、自分の愚かさを気づかせてくれる言葉を無意識に求めているのだと思う。

「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」という武者小路実篤の言葉に、私は人生のある時期に救われました。

みんなから馬鹿にされても、目に見えない進歩でも、努力が報われるのが千年後でも、馬鹿一のように生きようと思えました。

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